データが爆発的に増え続ける現代において、異なるソースに散らばる情報を正しく統合することは、ビジネスの意思決定を左右する重要な課題です。今回は、DatabricksのスタッフデータサイエンティストであるAimee Shi Zhang氏による講演「Entity Resolution for the Best Outcomes on Your Data」を基に、この「エンティティ解決(Entity Resolution)」と呼ばれる技術の基礎から、ベクトル検索やLLMを活用した最新のアプローチまでを掘り下げていきます。本記事を読めば、データの名寄せが直面する課題と、それを乗り越えるための具体的なシステム設計や運用方法についての知見を得られるはずです。
エンティティ解決とは何か?その根本的な課題
エンティティ解決とは、異なるデータソースやシステムに存在する「同一」のエンティティ(例えば、人物、製品、企業など)を特定し、統合するプロセスを指します。これにより、データの重複を排除し、信頼性の高い「ゴールデンレコード」を作成することが可能になります。
講演では、ヘッドセットの例が挙げられました。「Plantronics Voyager」「Poly Voyager」「HP Poly Voyager」といった異なる名称が、実はHPによる企業買収を経て生まれた同一製品を指しているケースです。人間であれば背景知識から同一だと判断できますが、システムがこれを自動で判断するのは簡単ではありません。
従来、この問題には文字列の類似度を測る手法(例えば、レーベンシュタイン距離を計算するRapidFuzzなど)や、特定のルールに基づいてマッチングさせる手法が用いられてきました。しかし、これらのアプローチには根本的な課題があります。それは、データ量の増加に伴う計算量の爆発です。
講演で指摘されたように、100万件のレコードを持つデータセットに新しいレコードを追加してマッチングする場合、単純な総当たり方式では100万回の比較が必要です。データセット自体をクレンジングしようとすれば、比較対象はさらに増え、計算量は二次関数的に(O(n²))増加してしまいます。これでは、現代のビッグデータを扱う上で現実的ではありません。
計算量の壁を打ち破る最新技術:ベクトル検索とANN
この計算量の課題を解決する鍵として、講演ではベクトル検索と埋め込み(Embedding)技術が紹介されました。これは、テキストや画像などのデータを、その意味的な特徴を捉えた高次元のベクトルに変換し、ベクトル空間上での近さ(類似度)を計算するアプローチです。
例えば、製品の説明文を単なる文字列としてではなく、言語モデル(Embedding Model)を使って意味を捉えたベクトルに変換します。これにより、「ヘッドセット」と「イヤホン」が意味的に近いことや、「Apple」という単語が文脈によって果物なのか企業なのかを区別できるようになります。
この技術の最大のメリットは、近似最近傍探索(ANN: Approximate Nearest Neighbor)アルゴリズムの活用にあります。ANNは、ベクトル空間全体を探索するのではなく、効率的なインデックス構造を使って高速に「近似的な」最近傍ベクトルを見つけ出します。これにより、計算量をO(n²)からO(n)に近いレベルまで劇的に削減できるのです。講演では、この技術によって、従来のマッチング手法が抱えていたスケーラビリティの問題を克服できると強調されました。
これは、候補を絞り込む「ブロッキング」という古典的な手法の進化形と捉えることもできます。従来は「郵便番号が同じ」といった単純なルールで候補を絞っていましたが、ベクトル検索を使えば「意味的に類似する製品」といった、より高度で柔軟な候補生成が可能になります。
実用的なエンティティ解決システムの全体像
講演では、エンティティ解決を実現するためのシステム構成についても解説されました。これは主に3つのコンポーネントから成り立っています。
データマスタリングシステム (Data Mastering System) 役割:社内の信頼できる唯一のデータソース、「ゴールデンレコード」を維持・管理する中核システム。 SLA:データの正規化や重複排除を行うため、処理は夜間バッチなど、リアルタイム性は求められないことが多い。
マッチングシステム (Matching System) 役割:外部から入ってくる新しいデータが、既存のマスターデータと一致するかをリアルタイムで判定する。 SLA:即時応答性が求められるため、高速な処理が必要。
エンリッチメントシステム (Enrichment System) 役割:入力データに不足している情報(例:住所情報が不完全)を、外部サービスなどから補完し、マッチング精度を高める。
これら3つのシステムは、それぞれ異なるSLAを持ちますが、内部ではベクトル検索や機械学習モデルといった共通のコア技術を利用します。重要なのは、これらを疎結合なコンポーネントとして設計することで、柔軟なシステム構築が可能になる点です。
精度評価と継続的改善の壁をどう乗り越えるか
エンティティ解決システムを構築する上で、もう一つの大きな壁が「精度評価」と「モデルの陳腐化」です。
評価指標の選択
システムの性能をどう評価するかは、ユースケースによって異なります。講演では、Aimee氏が複数の評価指標を紹介しました。
- MRR (Mean Reciprocal Rank) 検索結果のランキングを評価する指標。正しい答えがリストの上位にあるほど高いスコアになります。候補の中から最も確からしいものを一つ見つけたい場合に有効です。
- Precision (適合率), Recall (再現率), F1スコア ペアワイズ比較の精度を評価する古典的な指標。PrecisionとRecallはしばしばトレードオフの関係にあり、どちらを優先するかは業務要件に応じて決定します。なお、より複雑なエンティティ解決では、B2メトリクスのようにペアワイズ指標を集計したものを用いる場合もあります。
Aimee氏は「完璧な万能指標は存在しないため、ビジネス要件に合わせて最適な指標を選択することが重要だ」と述べています。例えば、あるモデルはMRRが高いもののPrecisionが低いケースや、その逆のケースがしばしば発生し得ます。
継続的な改善のためのフィードバックシステム
モデルは新しい製品の登場やデータの傾向変化に伴って精度が劣化しやすく、これを「モデルの陳腐化(Stagnancy)」と呼びます。講演では、この課題を克服するために、CI/CDパイプラインに評価プロセスを組み込み、モデル改善のためのフィードバックシステムを構築する重要性が強調されました。
オフライン評価の自動化 新しいモデルを開発したら、既存の評価データセットで精度を検証し、そのプロセスをCI/CDパイプラインに組み込むことで、品質の低いモデルが本番環境にデプロイされるのを防ぎます。
チャンピオン・チャレンジャー運用 現在本番で稼働しているモデル(チャンピオン)とは別に、新しいモデル(チャレンジャー)を並行して動かし、性能を比較。Databricksのモデルサービングエンドポイントのような仕組みを活用すると、リスクを抑えつつ新モデルの評価が可能です。
ヒューマン&LLM協働のフィードバックループ LLMを活用してモデルの予測結果を自動評価し、判断が難しいケースのみを人間の専門家がレビューする仕組みを導入できます。これにより、効率的に高品質な正解データ(Ground Truth)を蓄積し、モデル再学習に活かせます。
Databricksによるデモケーススタディ
講演のデモでは、公開データセット「Amazon-Google製品データセット」を使い、Databricks上でエンティティ解決パイプラインを構築する様子が示されました。
- GoogleとAmazonの製品データを読み込む
- 製品名や説明文を統合し、Embeddingモデルでベクトル化
- Databricksのベクトル検索機能で類似製品候補を抽出
- LLMによる「Match/Not Match」の自動判定エンドポイントを呼び出し、候補ペアの詳細判定
- 判定結果を専用UIで人間が確認・修正し、フィードバックループを実装
このデモから分かるのは、エンティティ解決は単一モデルで完結するものではなく、「候補生成(ベクトル検索)→詳細判定(LLMや分類モデル)→人間レビュー」 といった複数モジュールを組み合わせたパイプラインが肝要だという点です。また、Databricks Lakehouse Platform上のMLflowやUnity Catalog、Lakehouse Monitoringが、実験管理からガバナンス、継続的な監視までを支えていることがよく分かりました。
まとめ:エンティティ解決を成功させるためのベストプラクティス
本講演を通じて、現代のエンティティ解決における重要なポイントが明らかになりました。
スケーラビリティの確保 ベクトル検索とANNの活用により、計算量の爆発を抑え、ビッグデータ環境でもリアルタイム性を維持できます。
モジュラーなシステム設計 データマスタリング、マッチング、エンリッチメントといった機能をコンポーネント化し、モデルサービングエンドポイントを介して連携。柔軟性と拡張性の高いアーキテクチャを実現します。
継続的な評価と改善 CI/CDを通じたモデルの自動評価、チャンピオン・チャレンジャー運用、そして人間とLLMを組み合わせたフィードバックループなど、複数の手法を組み合わせることで、モデル精度の維持・向上を図ります。
エンティティ解決はもはや単なるデータクレンジングではなく、AIモデルの性能を最大化し、データドリブンな意思決定の質を高める戦略的投資です。今回紹介したアプローチやツールを活用し、自社のデータ基盤を見直してみてください。