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医療AIの未来を拓く「半合成データ」:プライバシーと実用性を両立するモデル構築術

※本記事は、Data + AI Summit のセッションを現地で視聴したエンジニアが、内容をできる限り客観的に共有することを目的に、生成AIを活用して作成したものです。 ― エーピーコミュニケーションズ Lakehouse部

先日開催されたData+AI Summitにて、Fight Health Insuranceの共同創設者であるHolden Karau氏が「Building AI Models In Health Care Using Semi-Synthetic Data」と題した非常に興味深い講演を行いました。医療という極めて機微な情報を扱う領域で、いかにしてプライバシーを保護しつつ、実用的なAIモデルを構築するか。本記事では、Karau氏が示した「半合成データ」を活用した革新的なアプローチを、技術的な詳細とともに解説していきます。

Karau氏がこの問題に取り組む背景には、個人的な体験がありました。2019年の交通事故による高額な医療費請求、そしてトランスジェンダーとして医療アクセスで直面した数々の保険拒否。これらの経験から、「このシステムは特定の人々だけでなく、誰にとっても壊れている」と痛感し、テクノロジーで解決策を模索し始めたと語ります。この記事では、その具体的な手法と哲学に迫ります。

アメリカの複雑な健康保険と「データがない」問題

AIモデルを構築する上で最初の壁となるのが、学習データの不足です。特にアメリカの医療保険の領域では、保険会社による支払拒否の通知や、それに対する患者の申立書といったデータは、ほとんど公開されていません。

Karau氏が指摘するように、保険会社がこのデータを共有してくれることはまず期待できません。一方で、医師や病院はHIPAA(医療保険の相互運用性と説明責任に関する法律)などの規制下にあり、患者の同意取得やBAA(事業提携者契約)などの体制構築なしには外部提供が難しいのが現状です。

そこでKarau氏が着目したのが、各州の保険委員会(Insurance Commissioner)が公開している「独立医療審査(IMR: Independent Medical Review)」の最終決定記録です。これは、保険会社と患者の間の争いが解決しない場合に、第三者機関が下した判断の記録です。このデータは個人情報が匿名化された形で公開されており、合法的にアクセス可能な貴重な情報源となります。

ただし、このデータはあくまで「最終決定」の記録です。私たちが本当に欲しいのは、その決定に至るまでの「拒否通知」と「申立書」のペアデータです。ここに、半合成データを活用するアイデアが生まれます。

プライバシーと実用性の両立:半合成データという解決策

実世界のデータが不足し、プライバシー規制が厳しい。この二つの課題を同時に解決する鍵として、Karau氏が提唱するのが「半合成データ」の活用です。

これは、完全に人工的なデータを生成するのではなく、実データの一部(この場合はIMRの匿名化済み決定記録)を基に、不足している情報を生成モデル(LLM)で補うアプローチです。具体的には、以下のようなプロセスで学習データを生成します。

  1. データソースの確保: カリフォルニア州などの保険委員会から、公開されているIMRの最終決定記録を収集します。これには、どのような治療が、どのような理由で承認または覆されたかという「論理」が含まれています。

  2. LLMによる逆生成: 収集したIMRの決定記録(結果C)をLLMに入力し、「この決定に至ったであろう元の拒否通知(A)と、それに対する効果的な申立書(B)を生成せよ」というプロンプトで指示を出します。

  3. データセットの構築: このプロセスを多数のIMR記録に対して実行することで、「拒否通知」と「申立書」のペアからなる、プライバシーが保護された半合成の学習データセットを大量に構築します。

この手法の最大のメリットは、実データの持つリアルな文脈や論理を維持しつつ、個人を特定できる情報(PHI/PII)を含まない安全なデータセットを作成できる点です。これにより、厳格なHIPAA規制を遵守しながら、モデルのファインチューニングを進めることが可能になります。

モデルのファインチューニングとプライバシー保護パイプライン

半合成データセットが準備できたら、次はいよいよモデルのファインチューニングです。Karau氏は、コストと性能のバランスを考慮し、巨大なモデルではなく、自前で運用可能な比較的小さなモデルを選択することの重要性を強調しました。

ファインチューニング戦略とツール

講演では、オープンソースのファインチューニングツールとしてOxolotlやUnslothが紹介されました。OxolotlはYAMLベースの設定で管理しやすく、UnslothはPythonノートブックでカスタム損失関数などを柔軟に記述できる利点があります。これらのツールを使い、複数のベースモデル(Gemmaなど)でファインチューニングを試行し、タスクに最適なモデルを選定します。

また、Karau氏は、ファインチューニングとRAG(Retrieval Augmented Generation)のハイブリッドアプローチの有効性にも言及しました。最新の医学研究を毎日モデルに再学習させるのはコストがかかりますが、RAGを使って推論時に最新情報をコンテキストとして与えることで、モデルの鮮度を保つことができます。ファインチューニングは、保険制度の大きな変更があった場合など、より長期的なサイクルで実施するのが現実的です。

ユーザーデータを守る多層的なプライバシー保護

モデルが完成し、実際にユーザーが利用する段階では、さらなるプライバシー保護策が求められます。Fight Health Insuranceのシステムでは、非常に巧妙な多層的アプローチが採用されています。

  • クライアントサイドでの匿名化: ユーザーがブラウザ上で保険の拒否通知などを入力すると、氏名や住所などの個人情報はJavaScriptでトークン(例: [PATIENT_NAME])に置き換えられ、サーバーには匿名化されたデータのみが送信されます。

  • ユーザーによる確認: 自動匿名化後にユーザー自身が内容を確認し、残存する個人情報があれば手動で削除するよう促します。
  • 人間による最終レビュー: 学習データとして利用する前に、人間が最終レビューを行い、個人情報が完全に除去されていることを確認します。

このアーキテクチャは、ユーザーのプライバシーを最大限に尊重しながら、モデルの継続的な改善に必要なデータを安全に収集するための優れた設計例と言えるでしょう。

月額400ドルで実現するオンプレミス推論

講演で特に印象的だったのが、推論インフラに関するコスト最適化の話です。多くのスタートアップがクラウドGPUを利用する中、Karau氏はあえてオンプレミス推論を選択しました。

その最大の理由はコストです。クラウドで同等のGPUをレンタルすると月額数千ドルかかる場合もありますが、Karau氏はデータセンターのラックを借り、自前で購入したコンシューマ向けGPU(NVIDIA RTX 4090など)を設置することで、月額約400ドルという低コストで運用していると述べました。初期投資は必要ですが、長期的に見れば圧倒的なコストメリットがあります。

もう一つの重要な理由は、セキュリティとコンプライアンスです。推論データにはユーザー入力が含まれるため、PHI/PIIの混入リスクがあります。自社管理下の物理サーバーで処理することで、外部クラウドベンダーとのBAA締結の手間やデータ漏洩リスクを低減できます。

物理ハードウェア運用には課題もありますが、Kubernetesなどのコンテナ技術を活用し、トラフィック急増時にはクラウドにバーストさせるハイブリッド構成も可能で、スケーラビリティも確保しています。

まとめと今後の展望

Holden Karau氏の講演は、医療AIという困難な領域において、技術的な工夫と強い倫理観を両立させるための具体的な道筋を示してくれました。

  • データ入手の壁は「半合成データ」で乗り越える: 公開されている匿名化データを基に、LLMで学習に必要なデータを生成するアプローチは、他の規制産業でも応用可能です。
  • プライバシー保護は多層的に: クライアントサイドでの匿名化、ユーザー確認、手動レビューを組み合わせることで、データの安全性を高めます。
  • コストとセキュリティを両立するオンプレミス推論: 常時稼働する推論ワークロードでは、クラウドよりもオンプレミスがコスト効率とセキュリティの両面で優位になる場合があります。

Fight Health Insuranceの取り組みはまだ始まったばかりです。今後は患者支援団体との連携強化や、より対話的なチャットUIの開発などを進めていくとのことです。

プライバシー保護は技術の社会実装における「制約」ではなく、信頼を築くための「必須要件」です。Karau氏のアプローチは、技術者として私たちが社会課題に向き合う指針を示してくれます。興味を持った方は、ぜひ公開されているGitHubリポジトリを覗いてみてください。